2014.1.31
驚きはそれだけじゃあなかった。
実は、合鴨農法(古野さんはアイガモ水稲同時作と命名)にはマニュアルがない。
もちろん入門書「合鴨ばんざい~アイガモ水稲同時作の実際~」はあるので、これに従ってやれば基礎を学ぶことは出来る。
ところが、相手は生き物である。
稲+カモ+外敵+草
例えばカラス。
この辺りのカラスと九州のカラスとでは、全く違う。
去年のカラスと今年のカラスも同じではない。
人間と自然界との知恵比べが毎年繰り広げられる。
この知恵比べを楽しめる人には、何年でも合鴨農法を続けられる。
ところが、自分の知恵の無さを認めることが出来ずに、何かのせいにする人には、自分の思う結果が得られないことが耐えられないのだろう。
そういう人は、さっさと止めてしまう。
合鴨水稲会は、学習組織である。
学習する者のために、最高の場が提供されている。
2014.1.29
1993年の初冬、合鴨農法の生みの親である古野隆雄さんに電話した。
「12月に広島県で全国大会があるので来て下さい」との返事だった。
開催地に行ってビックリ!!!
①全国大会ば交通の便の良いところでやるのが普通だと思っていたら、岡山県と鳥取県との県境で、岡山市で一泊してからの到着となった。なんでも、実行委員は農家なので、農家の地元で開催するのが、合鴨の集まりのルールなのだそうだ。あまりの田舎にビックリ!
②しかも、実行委員長は、フォーラムの準備に忙しくて12月だと言うのにまだ稲刈りが終わっていないと言う。そこまでのフォーラムにかける意気込みとボランティアスピリットにまたもやビックリ!
③全国から500人もド田舎に集まってきた。しかも朝から晩まで討論・討論で居眠りしている人が一人もいない。と言うよりも、飯の時間も夜も眠るのがもったいないくらいの勢いで、稲作や鴨の飼い方、お米の売り方、過疎化、都市との交流等様々な問題について議論し、交流した。あまりの熱気にビックリ!
④全国合鴨水稲会は、農家が作ったグループで、お役人により上から押し付けられたのではなく、農家が農家の問題を解決するために作った学習組織である。そして、そのメンバーは、生産者だけに限定せず、行政関係者、技術者、教育者、消費者、流通関係者、学生、総ての人達に門戸を広げ、それらの人々が平等にものを言える。そのスタイルの先進性にビックリ!
⑤「これは茨城でもやらにゃあいかんばい」と大分感化されて帰路に着いた自分にビックリ!
2014.1.27
日本国中が大冷害の影響でパニクっていた年のこと。
「合鴨を入れた田んぼは、普通の田んぼと比べると収量の低下は少なかったらしい」
そんな情報が飛び込んできた。
当時の管理人の情報源は非常に偏っていて、日本農業新聞か日本作物学会誌くらいのものだったから、確率1/2で日本農業新聞だろう。
誰に問い合わせれば詳細が分かるだろうか?
古野隆雄?この人が親方らしい。
次に続く。
2014.1.25
Tさんの今の田んぼの状況です。
冬の間、田んぼの作業はお休みかと言われると、そんなことはありません。
これは、8m毎に50cmの溝を切ってある状態です。
なんでこんなことをしてあるのかって? 説明しましょう。
1.稲は水中で育つ数少ない作物です。とは言うものの、全く水の動かない淀んだ田んぼでは、根が腐ってしまいます。根が腐ると、稲は死んでしまいます。一日に1cm~3cmくらい水位が下がる田んぼの稲の生育が良いと言われています。
2.秋、収穫シーズンを迎えた時に、すんなりと田んぼから水が抜けて、収穫機が入れられる田んぼは、作業がはかどるので、作業者にとって非常に都合が良いですよね。
1と2を満たすために、田んぼに排水溝を設けます。しかし、写真のままですと田んぼを耕耘した時に溝が埋まってしまい、排水溝の役割を果たさなくなってしまいます。そこで、溝を切って田んぼが充分乾いたら、次に溝にたくさん穴の開いたパイプを通します。パイプは排水路に繋げます。そして、パイプの周りを竹・枝・籾殻などで覆い、最後に土を掛けて平らにします。この施設を暗渠(あんきょ)排水と呼びます。
田んぼの機能を保つのも一筋縄ではいかないのです。
2014.1.24
皆さんは、平成5年(1993)がどんな年だったか覚えているだろうか?
その年の天候は、ひどいものだった。
梅雨が始まると、何日も何日も雨の日が続き、その雨は一向に収まる気配が無く、夏の暑さを感じないまま実りの秋を迎えた。
その年の夏、東北を目指した。
有機農業の大先輩の方々を訪ね歩き、田んぼを見せていただいた。
そこに育つ稲は、ことごとく寒さに打ちひしがれ、病弱していた。
多くの経験を持つ大先輩の方々でさえ、この大冷害に勝つ術を知らなかった。
その年のお米の作況指数は、青森の28が最低で、全国でも74を記録し、戦後最低だった。
有機農業で土作りをしっかりやっている田んぼは、環境変化に対して強いと言うのは単なる伝説だった。
別のニュースが、管理人に希望の光をもたらした。
「合鴨を入れた田んぼは、普通の田んぼと比べると収量の低下は少なかったらしい」
本当だろうか?
その真実を確かめずにはいられなかった。
2014.1.23
1990年頃、漫画で「夏子の酒」と言うのがあって、そこにお米の有機栽培の事が触れられていた。
夏子の場合は、幻の酒米「亀の尾」を復活させるために、亀の尾に最も適した栽培法を学ぶ内に、有機栽培にたどり着いた。
草取りが一番大変だな。
草取りが楽しければ、なんてことないんだけれどもね。
夏子の最後の場面では、合鴨が田んぼを泳いでいた。
この時まだ、合鴨農法が何者か全く分かっていなかった。
2014.1.20
販売の突破口を開くため あるいは風評被害の出足を止めるため 除染対策をこきざみに打つこと
この際 放射能の影響を非難する声を聞き漏らさぬ心構えで やや深耕を狙い えぐり込むように打つべし
正確な対策三発に続く農地回復は その威力を三倍に増すものなり ジョー!
と言う訳で、土を深く耕すと地面の力が放射能の毒素を抱き留めてくれるのですね。
私達はみなあまりに多くのものを失いました
でもすべては終ったのです
いまはすべてを始める時です ~ナウシカ~
2014.1.19
12月21日に発売した「笑鴨」の評判もお陰様で好評の様で、だんだん底が見え始めました。
原料(つまりお米です)の方は、もう一回仕込むくらいの量が倉庫にまだ残っているので、今年度最後の「笑鴨」仕込みが出来そうです。
いや~、初回の1000本を飲み切りましたか。皆さん良く飲みましたねえ(笑鴨)。
2014.1.11
管理人は、昨日よりTさんと一緒に山形に来ています。
宿泊先は、米沢の河鹿荘。
昨晩は、世話人会が開催され、今後の全国合鴨水稲会のあり方について話し合われました。
少し飲み過ぎて、羽目を外してしまいました。
その付は、帰路から体調に現れまして...(笑鴨)。
2014.1.10
管理人が「無農薬で米作りをやる」と宣言をすると、3人の刺客が管理人に送り込まれた。
一人目は我家のビッグダディ、
「無農薬でコメなんて出来るわけねえべ」
「ほらみろ、田んぼを草ボウボウにしやがって、お前が職場に行っている間にバサグラン(農薬名)振っといたからな」
二人目は本家の奥様、
「そろそろ畦に除草剤振っとかないと、次の作業が出来ねえべ。お前は仕事で忙しいんだから、代わりに振っといたからよ」
三人目は隣地を耕す爺様、
「お前の所に草があると、俺の所に入って来るから、来ないように境に除草剤振ったからな」
皆、敬愛すべき人達です。
オレは草取りが三度の飯より好きなんだからほっといてくれ!
何度この台詞を叫んだことか(笑鴨)。
2014.1.9
管理人が有機農業(合鴨農法を始める前のこと)を始めた頃の話をしようか。
管理人は、Tさんのように高尚な気持ちから有機農業を始めたのではない。
当時、田んぼに除草剤をまいても必ず生えてくるしつこい草があった。
これが悪いことに、収穫前のイネを抱え込んでバッタリと倒れるので、コンバインで収穫できなくなる。
田んぼに除草剤をやっても生えてくるのなら、やっても無駄だと思い、手で取ることに決めた。
その時の田んぼの面積は15アール。
10アール(10m×100m)あれば一家族一年間、腹一杯のコメを食わせられる。
オラの家族とカミさんの家族の2家族分で15アール。
田んぼの真ん中から始めて、少しずつ草を外へ追いやるようにやって行った。
1回目の除草をやっている最中に、後ろを振り返ると、草を取ったはずの所にもう草が生えていた。
結局、田植え後1ヶ月目から草取りを始め、3カ月間総ての週末は草取りとなった。
2年目も同様。3年間やったら、除草剤でどうしてもやっつけることが出来なかった種類の草が田んぼから姿を消した。
結論
①サラリーマンでも除草剤なしで米は作れる。
②宿根性の厄介な雑草も3年間まめに草取りすればなくなる。
③そこまでやると、あとどんなにハードな作業でも大したことないと思える。
④さあ、皆でガンバロー(笑鴨)。
2014.1.8
以前Tさんから自家製味噌を頂いた。
食べてみてびっくり、味の深みと甘み。
齢(よわい)ウン十年、今まで食べてきた味噌はいったいなんだったのだろうと思った。
それ以来、管理人も自分なりに工夫して手前味噌の制作に勤(いそ)しんでいるが、全く及ばない。
レシピは分かっている。
大豆、自家製の米麹、自然塩。
豆の潰し加減を変えてみたり、麹を変えてみたり、塩分を変えてみたり、水分を変えてみたり、仕込みの時期を変えてみたり、豆の品種を変えてみたり、豆をつぶす機械を変えてみたり、色々やってみたが満足できるものが未だ出来ない。
いったい何年トライアルばかりやっているのだろうと呆れ返る。
Tさん、もう以前の様に味噌の販売はやらないの?
その時は是非「笑鴨」印でお願いします(笑鴨)。
2014.1.7
昨日のブログで安易に「ああ、今年も杉玉が下がったなあ」くらいにしか思わなかっただろうと書いたけれども、違うな。
酒の登場は、神の御代にまで遡る。
高天原(タカマガハラ)から追放されたスサノオノミコトが地上に降り立って、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を酒で酔わせて叩き切り、その体から天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を取り出すくだりは、皆様ご存じの通り。
酒は神代の飲み物だったと言うことは、一般人がおいそれと簡単に口にすることは出来なかった。
それに、穀物を酒に変えるということは、言い換えれば、主食を嗜好品に変えることだよね。
ならば、主食以上の量を確保しなければならないはずで、搾取する側ならば、大いに楽しめただろうが、一般人が口に出来るようになるのは、ずっと後の事。
そう、古(いにしえ)の頃は、杉玉は道行く人に新酒をアピールしてたんじゃなくて、神様への伝言だったんだ。
それが、いつしか一般の人にも口に出来る時代がやってきた。
そうなると、杉玉を心待ちにした人達の存在が明確に浮かび上がってくるよね。
そこに思いが行かなかったのは、迂闊だった。
なんて恵まれた世に生まれ育ったのだろうと、己の愚かさ加減に愕然とした管理人であった。
それにしても、オロチかっこいい(笑鴨)。
2014.1.6
総て酒屋からの受け売りだということを最初に断わっておきます。
杉玉(すぎたま)とは、日本酒の造酒屋(つくりざかや)の軒先に吊るして
「今年のお酒を絞り始めましたよ。さあ、新酒をお味わい下さい。」との酒屋からのメッセージを道行く人に伝える看板のようなもので、杉の葉を集めて玉の形に仕上げたのだそうです。
「搾りたてよりも少し置いた酒の方が、味はまろやかになって美味しいと感じる人もいたので、その杉玉の枯れ具合によってお酒の買い時を決めていた」とも説明してくれました。
けれども、酒飲みにとって搾りたてかどうかなんて二の次で、酒さえあればhappyなんで「杉玉が下がってから今日で何日目だからそろそろ飲み時だな」なんて考えたのかなあ。
むしろ「ああ今年も杉玉が下がったなあ、新酒の季節か、ならば誰にたかって飲ませてもらおうか」くらいにしか思わなかったのではないかなと想像します。
管理人も特に気にしない部類です。
いや「笑鴨(わらいかも)」の発売日は非常に心待ちにしていましたよ(笑鴨)。
2014.1.5
「笑鴨」販売店のページに掲載されている「中川商店」さんのブログを見ていて、はてなと思ったことがあります。
それは、日本酒の説明に25BYと表記されているものがあって、その25BYって何だろうなと思ったわけです。
管理人だけが知らないと、こっ恥(ぱ)ずかしい(注:茨城弁でとっても恥ずかしい)ことなのでインターネットのヤホーで調べました。
先ず結論から言うと、25BYというのは「25年度」を意味しているようなんですね。
ただし単純に25年度ならば「25 fisical year =25FY」で良いはずなのですが、何故か25BY。
FでなくBが使われているのは何故だ?
そこでもう一度ヤホーの出番です。
25BYは、酒造界の業界用語で「25 brewery year (brewing year)」
つまり醸造年度を表していたのですね。
しかも7月1日から次の年の6月30日までがその年の醸造年度(=酒造年度・製造年度)となるらしい。
そうすると25BYの意味するところは、「平成25年度に仕込んだ酒ですよ」
言い換えれば「平成25年7月1日~平成26年6月30日に仕込んだ酒ですよ」と言うことのようです。
ところで「昔は目にしなかった醸造年度をわざわざ表記しているのは何故だろう」と考えてみました。
これは管理人の勝手な推測ですが、
①杉玉を酒屋の軒先に吊るしても意味の解らない人が増えた
②酒屋に直接赴いて酒を求める御仁がめっきり減った
③貯蔵技術の向上により新酒の荒々しさよりも、むしろ長期貯蔵して熟成された、ふくよかな味のお酒を求める通な人が増えた
④もっと違う理由
どうでしょうか? えっ、杉玉知らないって?
じゃあ、また今度(笑鴨)。
2014.1.2
今日は何をしたかと尋ねられると、昨年の秋に発生した大雨による畦の決壊と暗渠栓の崩壊があったので、今年の稲作のために新たに畦を作り直し、暗渠栓も直しました。
夜は飲んだくれていました。
と言う訳で、今日はお休み(笑鴨)。
2014.1.1
「一年の計は元旦にあり」
写真は、江戸時代水戸藩主であった徳川斉昭(なりあき)公が、食膳の際に最初の一箸をこの像の笠の中に供え、農民の苦労を偲ばれたとされている「農人形」です。
管理人の住む部落では、年が明けると「籾寄せ」と言って班(行政にかかわること)の連絡や世話人(冠婚葬祭等の部落単位でのことを司る人)について話し合う場が持たれます。
もともとこの部落の人達は、凶作の年に富山から難を逃れて来たという生い立ちを持っています。
なので最初は非常に貧しい百姓だったのですが、「籾寄せ」と呼ばれる互助組織を作り、年の初めにそれぞれが収穫した籾を持ち寄って、病気や災害で困っている人に回し、何とか飢えを凌いできたということです。
移住から200年余りが経っても、その精神は綿々と引き継がれています。
「籾寄せ」から帰ってくると既に酔っぱらっていて「一年の計はほにゃららら」と言った感じです。
斉昭公がこれを見て何と思っているやら(笑鴨)。
いいね!して下さった皆様へ、本当に有難うございます。
健全な食卓は、健全な未来を創る。
健全な社会のために、健全な食材と楽しい情報をお届けします。